この話はブログで折に触れていますが、私が再起できたキッカケのひとつに「ある看護師の存在」があります。 

30年以上前、携帯電話も存在しない古い時代です。

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抗がん剤治療を終えて退院した私は、検診のために毎月一回、岐阜大学病院の整形外科へ通ってました。

この検診は、肺転移していないか、再発していないかを調べるため。

レントゲンと血液検査、そして主治医の診察は定番でした。

検診は楽しみな時間でもありました。なぜなら病棟生活を共有した人たちの数人がまだ入院していたし、お世話になった看護師や、話し相手になってくれた家政婦のおばさんに会えたからです。

それがある日から検診に行くのをやめたのですが、理由は仲間のひとりが病棟で亡くなったことを知ったから。

ナースステーションにいた、当時お世話になっていた看護師に教えてもらったのですが、大きなショックを受けたことをいまもはっきりと覚えています。

家に帰り母親に話をすると、母親はせんぶ知っていました。知っていたけど私に伝えるべきか悩んでいたと。私はとにかく事実をあとから知ったのです。

こないだまで会えた人は、もう二度と会うことはなくなりました。

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もちろん悲しみは感じましたが、同時に現実を突きつけられたような気持ちになりました。

自分と同じ病気、同じ障害なので、他人事ではありません。

命が有限だということ、しかもひょっとしたら私の人生はあまり長くないかもしれないということ、こうして受けている毎月の検診も、再発や転移が見つかれば終わりだということ。そんなことに気づいてしまったのです。

この出来事は私が自暴自棄になるのに十分で、検診に行くのは無駄だと勝手に判断して行くのを止め、部屋に引きこもるようになりました。

中学時代の友人が訪ねてきたときも、家へ上げるのを拒みました。当時16〜17歳の多感な時期。もともとおとなしい性格ではなかったこともあり、両親やきょうだいには相当な迷惑を掛けました。

しばらく経ち、両親の説得もあり、しぶしぶ検診に向かったのですが、その先に運命を変える出来事が待っていたのです。

入院中、献身的に関わってくれ、手術前日の夜には長時間にわたり私の話を聞いてくれた看護師と再会したのです。

彼女から掛けられた言葉、表情・・・悲観的になっていた私の心が変わるのがわかりました。

氷が一気に解けるかのような、そんな出来事だったのです。

思えばその看護師からは、私自身の病気や障がいへの対処について何か言われた記憶はありません。

失った脚はもう戻らない。現代医学では生えてくることもありません。

そんな自分自身の障害に一生付き合いながら、どう行きていくのか?それは自分と心に、どう向き合っていくかだと思います。

そんな彼女からの言葉は、入院中の日々も、手術の前日の夜も、検診で再開したあの日も、弱っている心、自暴自棄になっている心、半ばあきらめようとしている心と、どう向き合うのかを教えてくれたように思います。

そして、10代の私の奥深くに隠れてしまった可能性や、自分でも気づかなかった強みなど、そうした部分に触れるような態度や言葉を、要所要所でかけてくれたように思います。

私が、もういちど頑張ってみようと思えたのはあの時代があったから。

そう思います。

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私はいま、看護のプロたちと一緒に、看護の力で地域を変えようと活動しています。

主に精神障害の方の回復などを支援していますが、身体の障害も心の障害も、基本は似ていると思うのです。

病気や症状とうまく付き合いながら、自分の強みを見つけて伸ばしていけば、それなりに幸せに暮らしていけると思うから。

病気や障がいの対処も大切ですが、それ以上に、強みや可能性を引き出す看護、回復のキッカケを見つけられる看護、そんな支援や看護が提供できたらと思って活動しています。

とはいえ、私自身リカバリーの道半で、壮大なぴあ活動の最中にいますので、まだまだこれからです。

ご利用者様や、これから出会うであろう方々、そしてくらしケアのスタッフとともに、回復(リカバリー)を目指していけたら。そんなふうに思っています。