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つい最近のこと。
身内に重い病気が見つかり手術を受けることになった。

患部が脳にあり、最悪の場合は重篤化する恐れがあるため発見と同時に手術になったのだが、幸い無事に治療を終えることができた。

印象的だったのは担当医の醸し出す雰囲気から自信に満ち溢れた感じが伝わってくること。そして受け答えも丁寧であったことから安心して手術に臨めたこと。とてもありがたく感じた。

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ところで考えてみると、患者はその医者が「医者」である以外、何者かを知らない。

何歳かも知らないし、家族構成も知らない。
どんな経歴かも知らないし、どんな思想信条かも知らない。
どんな技術があり、どれほど症例を診てきたのかも知らない。
医者という以外まったく知らないのだ。

それでも患者は目の前の医者を無条件に信じるしかない。
治療を委ね、場合によっては運命と将来を託すしかない立場にいる。

大病を患ったり大怪我をした経験があるなら、そんなふうに考えたことがある人もいるのではないか。

医療は日進月歩の世界だと聞く。
常に最新のことを学ばなければならないのが医療者だと聞く。

その学びの質や量は私のような普通の人間には想像もつかないようなレベルなのだろうが、そのおかげで患者は救われているのだと思う。

自分の家族が重い病気になれば腕の立つ医者に診て欲しい。
そして治して欲しいと思う。

患者の立場に立つと、この思いは医者にほどではないものの、看護師に対しても共通する部分がある。
患者にとって医者も看護師も人の命を扱う仕事であるが、患者は無条件に信じて身を任せている。

注射針を刺すのがヘタな看護師より、上手な看護師にやって欲しいのが患者。

そう考えると訪問看護ステーションも意識の高い集まりでありたいと思う。

私は医療者ではなく経営者だから、学びたいスタッフには十分に学べる環境を提供していく責任がある。

患者の多くは不安であり安心を求めているが、患者の安心感は医療者の様々な学びから来る自信が印象として表出し、結果として患者を安心させるかを決めているのだと思った。

患者の家族の立場で身内の運命を委ねることになったとき、改めてそんなことを思った。

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最後に、尊敬する知り合いの医者がこんな記事を書いていたので引用したい。

書かれていることは医学生に対してだが、医療に関わる人たちがこのような考え方を出発点に医療に向き合ってくれていると知れば、患者も家族も安心だと思う。



「医学生へ 医学を学んだ君に問う」

・君自身が医学を好むか嫌いかを度外視して、医学を専攻した事実を受容せねばならない。授業が面白くないからと言って、授業をサボることは許されない。医学が君にとって面白いか否か全く分からないのに、医学を選んだのは君自身の責任である。

・次に君に問う。人前で堂々と医学を選んだ理由を言えるか?それができないなら早々に転学すべきである。

・さらに問う。奉仕と犠牲の精神はあるか?死に至る病に泣く患者の心に君は添えるか?

・君に強く求める。医師の知識不足は許されない。知識不足のまま医師になると、罪のない患者を死なす。知らない治療をできるはずがない。そして自責の念がないままに「あらゆる手を尽くしましたが、残念でした」と言って恥じない。

・こんな医師になりたくないなら、「よく学び、よく遊び」は許されない。医学生は「よく学び、よく学び」しかないと覚悟せねばならない。

・最後に君に願う。医師の歓びは2つある。その1は、自分の医療によって健康を回復した患者の歓び。その2は、世のため人のために役立つ医学的発見の歓びである。

・心の真の平安をもたらすのは、富でも名声でも地位でもなく、人のため世のために役立つ何事かを成し遂げたと思える時なのだ。




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