会社員時代の厳しい体験が今に活きている
今日は平凡すぎる日曜日を過ごしていて書くことが思いつかないのでこんなタイトルで書いてみる。
サラリーマン時代の回顧録。つまんなかったらゴメンナサイ。
サラリーマン時代、もっとも激しく働いていた時期は2003年だったと思う。
ちょうど六本木ヒルズが開業がした年で、時を同じくして品川駅南口に品川グランドコモンズというビル群がオープンした。
そのうち品川駅に最も近いビルが職場だった。
真ん中の複雑なカタチをしたビルが当時の職場。
この時点で新幹線品川駅は未だ開通していなかった。
人生初の東京勤務、人生初の単身赴任。
それまで岐阜で平社員として働いていたが3月中旬に転勤命令が出た。
人事異動の内示を受取り、すぐさま東京へ向い、単身赴任先を大田区大森のワンルームマンションに決めた。
3月31日まで岐阜で普段どおりに仕事して夜には東京へ新幹線で移動。
翌朝4月1日には東京本社で朝礼に参加といった感じで慌ただしく異動したことを記憶している。
東京に呼ばれたのは理由があった。
僕が考案した賃貸住宅の適性供給に関するシステムが本社の偉いさんの目に止まったから。
このシステムを全国展開するために呼ばれたのだ。
本社勤務といえば栄転なのだが僕には地獄の始まりだった。
慣れない電車通勤に耐えながら朝から深夜まで働く日々。
終電に間にあわないことはあたり前。自腹でタクシー代をいくら使ったのか分からないほどだ。
休日もほぼ仕事していたし徹夜もしょっちゅう。なにしろ東京で遊んだ記憶がまったくないほど仕事漬けの日々だった。
僕がなぜ苦しんだかというと、岐阜で考案したシステムのレベルでは全国で通用しないからで、全国で通用するレベルのシステムにするためいちから作り直さなければならなかったからだ。
作っては上司にプレゼンし、上司からダメ出しを喰らう、の繰り返し。
本社勤務といえば栄転なのだが僕には地獄の始まりだった。
慣れない電車通勤に耐えながら朝から深夜まで働く日々。
終電に間にあわないことはあたり前。自腹でタクシー代をいくら使ったのか分からないほどだ。
休日もほぼ仕事していたし徹夜もしょっちゅう。なにしろ東京で遊んだ記憶がまったくないほど仕事漬けの日々だった。
僕がなぜ苦しんだかというと、岐阜で考案したシステムのレベルでは全国で通用しないからで、全国で通用するレベルのシステムにするためいちから作り直さなければならなかったからだ。
作っては上司にプレゼンし、上司からダメ出しを喰らう、の繰り返し。
ようやく上司からOKが出ても役員会で取締役や社長へプレゼンしてダメ出しを食らってやり直し。
そんな感じの日々が延々と続いた。
上司からは「納期がない仕事は仕事とはいわない!作業だ!」とか「いつまでにどこまで仕上げるんだ!」とかしょちゅう詰められる。
精神的にも弱りながら、それでも歯を食いしばれたのは「健常者に勝ちたい」という、いつものネガティブなモチベーションが根底にあったからだ。
なぜならこのシステムが完成したら全国の社員が使うようになる。すると僕の名前は全国のスタッフが知ることになるから、その日を夢見ることで努力することができた。
そして1年かけてシステムは完成。僕は管理職に昇格して現場へと戻ったのだった。
ちょうど双子の子どもが生まれるタイミングで地元に戻してもらえたのだが、思えばあの頃の体験が僕をビジネスマンとして鍛えてくれたように思うし、現在の会社経営に活きているのは間違いない。
そんな感じの日々が延々と続いた。
上司からは「納期がない仕事は仕事とはいわない!作業だ!」とか「いつまでにどこまで仕上げるんだ!」とかしょちゅう詰められる。
精神的にも弱りながら、それでも歯を食いしばれたのは「健常者に勝ちたい」という、いつものネガティブなモチベーションが根底にあったからだ。
なぜならこのシステムが完成したら全国の社員が使うようになる。すると僕の名前は全国のスタッフが知ることになるから、その日を夢見ることで努力することができた。
そして1年かけてシステムは完成。僕は管理職に昇格して現場へと戻ったのだった。
ちょうど双子の子どもが生まれるタイミングで地元に戻してもらえたのだが、思えばあの頃の体験が僕をビジネスマンとして鍛えてくれたように思うし、現在の会社経営に活きているのは間違いない。