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会社を作った平成23年、空き家問題という言葉は近年ほど流通していなかった。

そんな時代に、空き家を活用して社会に貢献できないかと考え起業した。

どうして空き家にこだわったのか。その理由について書いてみたいと思う。

やや専門的な話になるので、読むのは疲れるかもしれないがお許しを。


不動産屋に入ったきっかけ


先に、不動産業界に入ったきっかけについて書いておきたい。

闘病生活が明けたのちアルバイトや派遣で食いつないでいたが、正社員の道だけは厳しかった。

私は病気と障害で高校を辞めたので、普通運転免許があること以外、履歴書に書くことがない。

いまは「障がい者採用枠」というのがあるが、当時はあったのか無かったのか障がい者採用枠で就職を紹介されたことは無いから、未だ無かったのだろう。

考えたあげぐ国家資格でも取れば道は開けるのではないかと考えて、受験資格のある宅地建物取引士(不動産関係の資格)を取ることにした。

平成4年の試験で合格したが、時はバブル崩壊。不動産業界の先行きが不透明ななか、業界経験のない障がい者を雇おうとする面接官には出会えなかった。

だが最後の最後でチャンスがやってきた。

アパートの入居あっせんをする賃貸不動産屋の社長が即決で採用を決めてくれたのだ。

私に断る理由は何もない。藁をも掴む思いとはまさにこのことだ。

私は社長に深く頭を下げて、晴れて正社員となった。



自立させてくれた業界


当時、不動産業界は、ブラック企業で批判を受けている電通の社訓「鬼十則」を地で行くような会社が多かった。

私が身をおいた会社も例外ではなく、とにもかくにも成果主義。

待ってても仕事は来ないから動かないと始まらない。

働いた時間が成果に連動しないから深夜残業や休日出勤は当たり前だったが、どんなにつらくても入院していたときのことや右脚や髪を失ったときの苦労を思えば大したことはなかった。

中途採用が殆どのせいか、社員の資質にばらつきが多いからか、マナーや礼儀作法にはとても厳しい指導があったが、私はそうした学びを得る機会が無く大人になったから、逆にありがたかった。

名刺の受け渡し程度はどこの会社でも行われると思うが、お辞儀の角度、その使い分け、上座下座、電話対応など、基本的なマナーを徹底的に叩き込まれた。

そんな厳しい環境に身を置いていたおかげか、私のような出来損ないでも経済的に自立できるようになった。

「明日死ぬかもしれない」とベッドに横たわっていた10代を振り返ると、いまでも奇跡に思えることがある。




時代の移り変わりで湧いた疑問


2008年、私は単身、大阪に居たのだか、管理していたアパートの多くに空き部屋が出るようになった。

原因はリーマンショックというやつだ。

企業が社宅を減らしにかかり、アパートの退去が相次いだのだ。

アパート経営の多くは入居者が居ても居なくても家賃が入ってくる「サブリース」という方式が取られている。

サブリースの場合、入居者は大家さんから部屋を借りるのではなく、不動産会社または不動産管理会社から借りている。(賃貸借契約書の貸主が誰かを見ればわかる)

サブリースの家賃の流れについて簡単に説明すると、例えば、あなたが住むアパートに5万円の家賃を払っていたら、不動産会社は10〜15パーセントほど差し引き、残りを大家さんに振り込む。

10パーセントの場合、大家さんには4万5千円が振り込まれるが、サブリースは、空いている部屋にも4万5千円が支払われるから大家さんは安心、というわけ。

ただ、空き部屋にも4万5千円を払い続ける不動産会社とすれば自腹切るのと同じだから、できるだけ早く入居者を見つける必要がある。

そのため不動産会社は礼金0敷金0にするなどあの手この手で入居者集めをするのだが、ここで問題になってくるのが募集する家賃の設定。

5万円で借り手が見つからない場合だ。

人口は減る一方でアパートは増えているから家賃相場は下がる。相場が下がれば家賃を値下げする必要が出てくる。

大家さんには10パーセント引いた残りを振り込む約束だけど、値下げをすれば、大家さんに振り込まれる家賃が減ることになるから、大家さんとしては面白くないことになる。

大家さんには二通りいて「景気が悪いのだから仕方がない」と値下げを受け入れてくれる人と、「約束が違う」断固拒否する人がいる。

後者の場合、アパートを建てるときの営業マンのオーバートークが原因だが、これがやたら多かった。

大家さんを説得するのは私の仕事。拒否する気持ちは理解できるだけに心苦しい思いが続いた。

そしてちょうどこのタイミングで日本国内に757万もの空き家があることを知った。(数字は2008年間当時。直近2013年は820万戸まで増加)

そしてその半数はアパートの空き部屋で、これって、もう既に社会問題寸前じゃん、と思ったのだ。



生きること。働くこと。

家賃相場を調べ、根拠を示し、家賃を値下げをする。

この繰り返しをする脇で、また新しいアパートが建つ。

次第に違和感を感じるようになっていた。

私はただのサラリーマン。生活するには給料が要る。妥協するしかないという思いもある。

ただ、その給料はどこから出ているのかといえば会社ではない。

大家さんがいてアパートを建ててくださるから給料がいただける。

家賃の値下げ交渉を繰り返すなか、落胆する大家さんの表情を見るたび心が痛む。 

やりがいのないとても後味の悪い仕事だった。


2011年3月11日、未曾有の大震災が起きた。

テレビで見る映像に感じる途方もない無力感。

人生が一瞬で変わる瞬間を目の当たりにしたとき、何のために生きているのか、何のために働いているのかといった、人として根源的なことを自分に問うようになっていた。

サラリーマンとして出世したかったのか。

いい会社に入って自慢したかったのか。

たくさん給料が欲しかったのか。

良いモノに囲まれて暮らすことが夢だったのか。


津波により一瞬で人生が流されていく映像を目の当たりにしたとき、自分が追い求めていたものがいかに意味のないものだったことに気付いたのだ。

更に言えば、16歳のとき、私が病気になったこと、障害者になったこと。

今を生きていることの意味はなんなのか。

同じ病気を戦った同世代の仲間が生きたかった今日を生きる意味を考えた。

一方で、生活を維持するなら今の仕事を辞めるわけにはいかない。

でも今日を生きる意味を考え続ける自分自身がどうしても止まらない。

悩みに悩んだ末に、会社を辞めることにした。



育ててくれた業界への感謝を込めて


同年11月に起業、空き家を無くす目的の会社を始めた。

当時はまだ空き家問題という言葉は無くて苦戦は目に見えていたが、どうしても空き家活用に取り組みたかった。 

不動産を扱うためにはハトのマークの業界団体に入る必要があり、団体に入るためには役員による面接を受けなければならない。

その面接で「空き家活用に取り組みます」と発言したら変な空気になった。

「そんなので食べていけるの?」と失笑をかったことを今でも思い出す。

でも、確信があった。

社会に絶対に必要な仕事になると自信があったからバカにされても平気だった。

実際に起業したら給料はサラリーマン時代の1/4に減った。家族にも迷惑を掛けた。

でも、いま何もしないと子どもが大人になる頃には、3件に1件は空き家になると知り、平気でいられるほうがおかしいと思った。

それって、次世代が確実に苦労するということだがそれで良いのか?って話だ。

空き家活用のやり方は試行錯誤だったが、2年目には理解をしてくれる人が出はじめて、3年めには黒字が出て納税ができるようになった。

その後、出会った障害福祉で空き家活用の方向性は変わり、単に空き家を活用するのではなく、福祉的に活用することができないかと考え現在に至っている。

くらしケアは、病気や障害のある方に訪問看護サービスや障害福祉サービスを提供しているが、もちろん空き家の活用も中心的なテーマのままで、その志は創業時となんら変わっていない。

私ひとりで変えられることは限られているし限界があるのはわかっている。

でも、私が私でいられるようにしてくれた業界に感謝しているがゆえに、これからもずっと健全な業界であって欲しいと願う。

次世代が困らないような動きをすることで、小さなうねりを起こせたらと考えている。